と、思うんです。Google伝説が様々なところで謳われていますし、実際に人間の手が加えられたYahooなどの人為的なサイトはGoogleのロボットによるクローラーの合理性に負けるみたいなことがよく言われていますが、Googleはそんなでもない気がします。というのもまず間違いなく一日数回から数十回はGoogleを利用しますが、それらの検索の信憑性がどうやら人間同士の生の口コミやコミュニティーなんかよりもやはりガサツにできているんです。もし仮に我々の実生活基盤のような人間同士の情報交換ほどの信頼性と確実性のある情報検索がGoogleが可能にしたとしたら、たぶんそれは間違いなく人工知能が人間と全く同様になったということであると同時にこの地球上に存在する無数のコミュニティーの性格というものを分析しデータベース化しそれらを再現できるというちょっと神がかったことになるからです。
最近思ったのは、一人の人間の人格というのは、ある種の観念連合だとするとそれだけでも複雑奇っ怪であるのに、それらの人格が複数集まるともっと違った人格が形成されます。私自身が必要としている情報と、私と彼が必要としている情報は明らかに違う。それらが複合体になったらもっと違った情報を必要とし、逆にそれらのメンバー構成が変化する度に必要な情報が変化してくるわけです。そういう情報の価値の変化にGoogleは対応できるかといったら殆ど不可能だと思います。
地域の社会性(*1)なるものがありまして、それらは性格的にあるいは人格的にある関連に基づいて形成されているんです。例えば私の妻は、いわゆる西洋医学でいうところの薬(ケミカル)を使いません。薬局で薬を買わないし病院で処方される薬も飲みません。彼女等はホメオパシーと呼ばれるちょっと違った医学体系を実践している地域集団なんです。これはいわゆるオカルト的なニューエイジというのではなくて、特に若い「お母さん」が作っているコミュニティーなので妊娠中の女性は薬(ケミカルとかドラッグ)と呼ばれるものの摂取は控えないといけないんです。かつてのサリドマイドのように予想外の副作用が心配されるからです。勿論ケミカルの処方をきちんとした統計とデータに基づき摂取できるものとできないものを分別している若いお母さんのコミュニティーもあります。が、うちの妻はそういうコミュニティーではないわけです。そしてそれらのホメオパシーが文化として関連付くと同時に関連するのがテルミーという(これまた不思議な)温熱療法なんです。若いお母さん=子供=病気=ホメオパシー=テルミーは殆ど同義で、そしてどういうわけかそれらのお父さん達はエライ酒飲みです。しかもなぜかみんな自営業。常にキャッシュフローがおかしくなっていたり、銀行で金を借りたり、でかく儲けたと思ったらでかく赤字...なんていう非常に大きな波の中で生活している方々が多い。この不景気の波と自営というno-back-boneの生活とホメオパシーはどういうわけか関連している。この関連に基づいて、このような集団にどのような政治団体が近づいてくるのかというと民主党でもなく自民党でもなく...生活者ネットワークなんです。土木建設屋には共産党が付くように、これらのお母さんには生活者ネットワークが付きます。
ここから先も、無農薬の有機野菜や付随し、子供教育という分野でもコロロ探検隊(http://www.kololo.or.jp/)なるちょっと一風変わった幼稚園に集まります。地域の小さなコミュニティーですが完全にそららの観念連合がある種の生活基盤と文化、経済的乃至文化的な人格を作り出しているわけです。
ちょっと考えればわかることですが、ここまでの広告をGoogleが表示できるようになるかどうかというのは、実に怪しげだと思うんです。
集団という人格で言えばもっともっと小さなコミュニティーが存在します。私が個人的に「中卒コミュ」と名づけている観念連合もあります。彼らはその名の通り中卒であり殆ど教養がありません。まず漢字が殆ど書けない。体系的(学問的)なカテゴライズが全くできない。中心メディアはラジオでもインターネットでもなくテレビ。情報交換の8割はパチンコ情報と風俗情報。私が思うにインテリのGoogleはこういう文化基盤にまで浸透できるかというとこれもちょっと怪しげな感じがします。というのも彼らは実に土木建設という分野においては恐ろしくテクニカルで専門的な知識を要し世界のどこの地域でもコンクリート文化は殆ど彼らが担っているからです。Googleはコンクリート文化に浸透できるか...な。
最後に現在ちょっと問題になっている自殺コミュニティーに触れます。自殺、うつ病、メンタルヘルス系の文化基盤を持っているコミュニティーは非常に現代的で非常にユニークです。なのでちょっと常識を逸脱している部分がありますし、何よりも彼らは非常に頭脳明晰なのです。しかしその明晰性が拡張性に優れているのではなくむしろ閉じられた世界での完全性に収束する傾向があります。どういうわけかジョイスを愛していたり、文学的、芸術的な方向に傾倒しています。彼らはiPadに飛びついたりしない。食事はコンビニ弁当、太陽の光が嫌い、薬はリタリン、ハルシオン、パキシルなんかを愛用し、学生時代から成績優秀だったりするのになぜか職業は派遣社員とか警備員とかアルバイトだったりするわけです。当然独身かパラサイトシングル。スポーツ音痴。そして「xxxxの成功法」なんていう一攫千金的な野望が大きい。例えばGoogleの検索で「パキシル」を検索した際に「xxxxxの成功法」と「運動音痴」というキーワードが同時に出てくるかどうかというと怪しいもので、Googleはもっと汎用的で一義的なキーワードのみをデータベースで関連付けるしかできないと思います。
そんなわけで完全に閉じられた世界へのGoogleのコミットはなかなか困難なんじゃないかということが予想できるわけです。しかし実際に経済的乃至文化的にある価値が交換される場面というのはGoogleのような信憑性に薄い汎用的な場面ではなく、むしろ集団自殺までしてしまうぐらいの、ケミカルは一切使用しませんというような絶対信念を持っているお母さん達の、女>金>女>金>女みたいなぐらいの求め方で十分生活が可能な...というむしろ特殊である(また、ある側面から見れば当たり前に存在する)地域集団という場面での価値の交換が多くなされているということがかなり重要なタームになってくるんじゃないかと思うわけです。
Googleが目指していることは、あの巨大なデータベースでは不可能なんじゃないかと。
ある信頼と信憑性に満ちたコミュニティーグループが拡張性と分離性、また結合性と変化に富んでいるとしたら...またそういう集団ばかりが世界に生きていたとしたらGoogleは上方面においても物質面においても世界制覇が可能だと思います。しかし実際はそうではない。
社会学において「限定された能力」というものがあって、通常人間は自己の拡張性と拡大、知識の蓄積と技術...それに関連する富を当然欲していると定義すると「限定された能力」という不思議な人間の性質に突き当たるそうです。これは日本の部落社会(または世界各国のスラム社会)などに見られる現象で「これこれこういうことをしたら、豊かになりますよ。」という文句に対して無反応という文化的傾向のことをいいます。これは一人の人間ではなくある種のコミュニティーで見られる現象です。部落を開放して名前を名乗って自由に働いてください!と共産党の偽善議員が部落地区を廻って歩いても誰も見向きもしない。むしろよそ者が入ってきたといって追い出される。外の世界からみたら実に貧乏で不幸そうに見えるわけですが、そららの貧困のことなんて彼らはどうでもいいわけです。限定された能力の中で子孫を増やし脈々とその地で同じような生き方をしている。そして勿論その社会の中にも経済的乃至文化的な価値の交換があり、それらの信頼を基盤にしてコミュニティーが成立しているわけです。
このようなコミュニティーが存在する、また、そのコミュニティーがある種のツールを求めているというところにソシャルコミュニティーという新しいインターネットツールが爆発的な人気となるわけですが、それがFacebook、mixiであり、twitterであり、Tumblrであり、Flickrであり...というわけです。かつては(今現在も)2ちゃんねるはそれらの小さな特殊なコミュニティーを生産しつづけています。
となると、結果的に、
という結果になりました。世界統一国家>それぞれの地域(アジア、ヨーロッパ...)>国>州(都道府県)>市町村>それぞれのコミュニティーにインターネットという次元が加わってより立体的なディメンションになった...というだけなのかなと。
*1 ここでいう地域というのは空間的乃至時間的な意味での地域地場というのではなくて、あくまでもコミュニティーとしてきちんと人々がコミットしているという意味での地域です。インターネット時代になって日本とオランダとトルコとモンゴルの4人の方々が小さなコミュニティーを築くことができるし、実際にユダヤ人や華僑は世界規模でのコミュニティーを保持しているわけです。そういう意味での密接なつながりという意味での地域です。
最近思ったのは、一人の人間の人格というのは、ある種の観念連合だとするとそれだけでも複雑奇っ怪であるのに、それらの人格が複数集まるともっと違った人格が形成されます。私自身が必要としている情報と、私と彼が必要としている情報は明らかに違う。それらが複合体になったらもっと違った情報を必要とし、逆にそれらのメンバー構成が変化する度に必要な情報が変化してくるわけです。そういう情報の価値の変化にGoogleは対応できるかといったら殆ど不可能だと思います。
地域の社会性(*1)なるものがありまして、それらは性格的にあるいは人格的にある関連に基づいて形成されているんです。例えば私の妻は、いわゆる西洋医学でいうところの薬(ケミカル)を使いません。薬局で薬を買わないし病院で処方される薬も飲みません。彼女等はホメオパシーと呼ばれるちょっと違った医学体系を実践している地域集団なんです。これはいわゆるオカルト的なニューエイジというのではなくて、特に若い「お母さん」が作っているコミュニティーなので妊娠中の女性は薬(ケミカルとかドラッグ)と呼ばれるものの摂取は控えないといけないんです。かつてのサリドマイドのように予想外の副作用が心配されるからです。勿論ケミカルの処方をきちんとした統計とデータに基づき摂取できるものとできないものを分別している若いお母さんのコミュニティーもあります。が、うちの妻はそういうコミュニティーではないわけです。そしてそれらのホメオパシーが文化として関連付くと同時に関連するのがテルミーという(これまた不思議な)温熱療法なんです。若いお母さん=子供=病気=ホメオパシー=テルミーは殆ど同義で、そしてどういうわけかそれらのお父さん達はエライ酒飲みです。しかもなぜかみんな自営業。常にキャッシュフローがおかしくなっていたり、銀行で金を借りたり、でかく儲けたと思ったらでかく赤字...なんていう非常に大きな波の中で生活している方々が多い。この不景気の波と自営というno-back-boneの生活とホメオパシーはどういうわけか関連している。この関連に基づいて、このような集団にどのような政治団体が近づいてくるのかというと民主党でもなく自民党でもなく...生活者ネットワークなんです。土木建設屋には共産党が付くように、これらのお母さんには生活者ネットワークが付きます。
ここから先も、無農薬の有機野菜や付随し、子供教育という分野でもコロロ探検隊(http://www.kololo.or.jp/)なるちょっと一風変わった幼稚園に集まります。地域の小さなコミュニティーですが完全にそららの観念連合がある種の生活基盤と文化、経済的乃至文化的な人格を作り出しているわけです。
ちょっと考えればわかることですが、ここまでの広告をGoogleが表示できるようになるかどうかというのは、実に怪しげだと思うんです。
集団という人格で言えばもっともっと小さなコミュニティーが存在します。私が個人的に「中卒コミュ」と名づけている観念連合もあります。彼らはその名の通り中卒であり殆ど教養がありません。まず漢字が殆ど書けない。体系的(学問的)なカテゴライズが全くできない。中心メディアはラジオでもインターネットでもなくテレビ。情報交換の8割はパチンコ情報と風俗情報。私が思うにインテリのGoogleはこういう文化基盤にまで浸透できるかというとこれもちょっと怪しげな感じがします。というのも彼らは実に土木建設という分野においては恐ろしくテクニカルで専門的な知識を要し世界のどこの地域でもコンクリート文化は殆ど彼らが担っているからです。Googleはコンクリート文化に浸透できるか...な。
最後に現在ちょっと問題になっている自殺コミュニティーに触れます。自殺、うつ病、メンタルヘルス系の文化基盤を持っているコミュニティーは非常に現代的で非常にユニークです。なのでちょっと常識を逸脱している部分がありますし、何よりも彼らは非常に頭脳明晰なのです。しかしその明晰性が拡張性に優れているのではなくむしろ閉じられた世界での完全性に収束する傾向があります。どういうわけかジョイスを愛していたり、文学的、芸術的な方向に傾倒しています。彼らはiPadに飛びついたりしない。食事はコンビニ弁当、太陽の光が嫌い、薬はリタリン、ハルシオン、パキシルなんかを愛用し、学生時代から成績優秀だったりするのになぜか職業は派遣社員とか警備員とかアルバイトだったりするわけです。当然独身かパラサイトシングル。スポーツ音痴。そして「xxxxの成功法」なんていう一攫千金的な野望が大きい。例えばGoogleの検索で「パキシル」を検索した際に「xxxxxの成功法」と「運動音痴」というキーワードが同時に出てくるかどうかというと怪しいもので、Googleはもっと汎用的で一義的なキーワードのみをデータベースで関連付けるしかできないと思います。
そんなわけで完全に閉じられた世界へのGoogleのコミットはなかなか困難なんじゃないかということが予想できるわけです。しかし実際に経済的乃至文化的にある価値が交換される場面というのはGoogleのような信憑性に薄い汎用的な場面ではなく、むしろ集団自殺までしてしまうぐらいの、ケミカルは一切使用しませんというような絶対信念を持っているお母さん達の、女>金>女>金>女みたいなぐらいの求め方で十分生活が可能な...というむしろ特殊である(また、ある側面から見れば当たり前に存在する)地域集団という場面での価値の交換が多くなされているということがかなり重要なタームになってくるんじゃないかと思うわけです。
Googleが目指していることは、あの巨大なデータベースでは不可能なんじゃないかと。
ある信頼と信憑性に満ちたコミュニティーグループが拡張性と分離性、また結合性と変化に富んでいるとしたら...またそういう集団ばかりが世界に生きていたとしたらGoogleは上方面においても物質面においても世界制覇が可能だと思います。しかし実際はそうではない。
社会学において「限定された能力」というものがあって、通常人間は自己の拡張性と拡大、知識の蓄積と技術...それに関連する富を当然欲していると定義すると「限定された能力」という不思議な人間の性質に突き当たるそうです。これは日本の部落社会(または世界各国のスラム社会)などに見られる現象で「これこれこういうことをしたら、豊かになりますよ。」という文句に対して無反応という文化的傾向のことをいいます。これは一人の人間ではなくある種のコミュニティーで見られる現象です。部落を開放して名前を名乗って自由に働いてください!と共産党の偽善議員が部落地区を廻って歩いても誰も見向きもしない。むしろよそ者が入ってきたといって追い出される。外の世界からみたら実に貧乏で不幸そうに見えるわけですが、そららの貧困のことなんて彼らはどうでもいいわけです。限定された能力の中で子孫を増やし脈々とその地で同じような生き方をしている。そして勿論その社会の中にも経済的乃至文化的な価値の交換があり、それらの信頼を基盤にしてコミュニティーが成立しているわけです。
このようなコミュニティーが存在する、また、そのコミュニティーがある種のツールを求めているというところにソシャルコミュニティーという新しいインターネットツールが爆発的な人気となるわけですが、それがFacebook、mixiであり、twitterであり、Tumblrであり、Flickrであり...というわけです。かつては(今現在も)2ちゃんねるはそれらの小さな特殊なコミュニティーを生産しつづけています。
となると、結果的に、
ツールが違うけど、たいしてむかしと変わらないじゃないか...。
という結果になりました。世界統一国家>それぞれの地域(アジア、ヨーロッパ...)>国>州(都道府県)>市町村>それぞれのコミュニティーにインターネットという次元が加わってより立体的なディメンションになった...というだけなのかなと。
*1 ここでいう地域というのは空間的乃至時間的な意味での地域地場というのではなくて、あくまでもコミュニティーとしてきちんと人々がコミットしているという意味での地域です。インターネット時代になって日本とオランダとトルコとモンゴルの4人の方々が小さなコミュニティーを築くことができるし、実際にユダヤ人や華僑は世界規模でのコミュニティーを保持しているわけです。そういう意味での密接なつながりという意味での地域です。


